しめ飾りの由来と民俗

●正月飾り

正月飾りとは、お正月に松や しめ縄で、家の内外を飾ること、またその飾りのことをいいます。正月飾りの松を「門松」又は「松飾り」、しめ縄を「しめ飾り」と呼びます。
松は、お正月の神様(年神)がやどる目印と考えられています。一方しめ縄は、神聖な場所を他の場所と区分し、邪気(悪い気)が入らないようにするものです。
土台のない門松(笠沙町小浦)

●しめ飾りの起源

しめ飾りやしめ縄が、いつから始まったのかは、はっきりしません。
しかし、西暦720年につくられた『日本書紀』には、次のような記事があります。

〔天の岩戸〕 ――いたずらを繰り返すスサノオの命に、天照大神(アマテラスオオミカミ)は怒って、天の岩戸にこもってしまいます。天照が隠れると、日光が遮られ、世界は真っ暗になってしまいました。何とか天照に出てきてもらおうと、神々は岩戸の外でにぎやかに騒ぎます。その笑い声にひかれて天照も岩戸を少し開けます。その瞬間、神々は、天照を岩戸から引き出し、しめ縄を張って、もう岩戸に戻らないように、天照にお願いしました。

…原文:「是(ここ)に、中臣神(なかとみのかみ)・忌部神(いみべのかみ)、即ち端出之(しりくめ)縄(なは)(縄、亦(また)云(い)はく、左(ひだり)縄(なは)の端(はし)出(いだ)すといふ。此をば斯(し)梨(り)倶(く)梅(め)儺(な)波(は)と云う。)界(ひきわた)す。」

つまり、『日本書紀』には、「左縄の端っこを切っていない縄を、端出之縄(しりくめ縄)と言い、それを岩戸に張った」と書いてあるのです。
この記事自体は神話の世界の話なのですが、この記事が書かれた奈良時代には、すでに「しめ縄」の概念があったということが分かります。

●南さつまの正月行事

鹿児島の正月行事は、大正月・七日正月・小正月に分けられます。
南さつまでは大正月には、家々では若水汲みや初詣、集落では拝賀登山や拝賀式があります。昔は、破魔投げをするところもありました。なお「拝賀」とは、天子を拝むことですから、近代天皇崇拝思想が確立する明治以降に使われ始めた名称だと思われます。
市内には、あえて正月飾りを作らないという家もあります。そうした家々では、「昔、戦から帰った時に馬がしめ縄に引っ掛かった」とか「戦準備で正月飾りを作る間もなかった」という言い伝えが残っています。
七草の日をナンカンセッ(七日の節句)と呼び、数え7歳の子供が、7軒からナナズシ(七草雑炊)をもらって回ります。同じ7日には、前日のムイカドシ(六日年)に片付けられた正月飾りを川原や広場で焼く、鬼火焚き(オネッポ・オネッコ・オニケンビ)があり、今でも市内各地で行われています。
11日に御伊勢講をする集落もあります。小正月にはメノモチを飾りました。

●しめ飾りのいろいろ

南さつま市では、左縄に、ウラジロ、ダイダイ、里芋、炭をつけます。また、昆布をつけるところもあります。
それぞれに縁起の良い品々で、一般的には次のように解釈されています。
  • ウラジロ……(葉の裏が白いので)表裏のない潔白な人生を願う。
  • ダイダイ…(橙と代々をかけて)代々子孫繁栄を願う。
  • 里芋……(子芋が沢山ついて)子孫繁栄、豊穣祈願。
  • 昆布…(昆布と喜をかけて)福を喜ぶ。
  • 炭…(住みとかけて)永住を祝う。また黒が邪気を払う。
正月飾りにも、地域ごとに違いがあり、飾りの一つひとつに意味が込められています。私たちも大切にこれらの伝承を残していきたいものです。

※この文章は、南さつま市加世田上鴻巣集落からの依頼で、まとめたものです。
〔参考文献〕『日本民俗大辞典』(吉川弘文館)・『日本書紀 上』(岩波書店 日本古典文学大系)・小野重朗著『鹿児島の民俗暦』(海鳥社)・『加世田市の民俗』(加世田市教育委員会)